ニュースレター第75号巻頭言

私たちは 「文明」 という語を使い続けることができるか 山下範久

2021/08/13 12:52
広報委員会

  

  

 私たちは「比較文明学会」に集っている。その意味で「文明」という語を、なんらかのかたちで受け入れている。もちろん「文明」という語は、いくつかの文脈では普通に用いられている。たとえば世界史の教科書では、「メソポタミア文明」や「古アメリカ文明」、「エーゲ文明」など、いくつも「文明」の語が出てくる。あらためて「受け入れている」と言挙げすることにむしろ違和感を持たれる方もいるかもしれない。しかし、他方で「文明」は「野蛮」と対になる言葉であり、その語のもとで植民地主義やさまざまな啓蒙主義的暴力が正当化されてきた歴史がある。また近代以前の文脈においても「文明」は、征服権力としての「帝国」と重なり合っていることが多い。この語を中立的な分析概念として無邪気に用いることは難しい。そこに非対称性の暴力を正当化する論理が刻印されているからだ。今日、かりにも「日本文明」という言葉を用いようとすれば、日本による植民地主義への批判や、古代のヤマト政権による被征服民、アイヌや琉球のひとびとの視点からの批判を踏まえずにはありえない。日本研究者のテッサ・モリス=スズキは、「日本文明」という概念自体を政治的に不適切(politically incorrect)であるとさえ断じている。 

 「文明」という概念に刻印されている非対称性はそれにとどまらない。掘り下げて考えて見れば、世界史の教科書に出てくる文明は、そのほとんどが、人類史が自然史から離陸する界面に接する記述において現れる。つまりそこで「文明」は、人間が客体としての自然に主体として対峙するという非対称性の刻印を帯びている。環境問題という視点に立った時、そこにもやはり暴力がある。「文明」という概念で人類史のはじまりを分節化することもまた、私たちが無反省に受け入れてよいほど中立的なものではない。 

 では、私たちはもはや「文明」という語を捨て去るべきなのだろうか。おそらく、それほど問題は単純ではないだろう。「文明」という言葉を迂回するだけで、まっさらで対称的な視座が自動的に手に入るわけではないからだ。私たちはまず、この語に何重にも刻印された非対称性の地層を掘り起こし、その系譜を解きほぐす必要がある。そうした批判的な意味で「文明」はむしろ喫緊の分析対象である。 

 すでに示唆した通り、「文明」に刻印された非対称性は、つきつめれば人間と(人間以外の) モノとのあいだの非対称性である。そこから考えれば、批判的な 「文明」 分析にはすくなくとも三つのフロントがある。すなわち、人間と自然のあいだの分割、人間のなかに引かれる人間と非人間のあいだの分割、そして人間と人工物のあいだの分割である。 

 温暖化のような環境問題がこれだけクローズアップされる今日、人間と自然のあいだの分割の非対称性が帯びる暴力性を見て取ることに困難はないであろう。「人新世」という新しい概念が、それが提起された地質学の文脈を越えて人文学にまでインパクトを持つのは、自然を所与の客体とし、人間がそこから独立した主体であるとする存在論的前提が、経験的レベルで機能不全に陥っているからであろう。 

 人間のなかに引かれた人間と非人間の分割は、特定のカテゴリーの人間がモノとして扱われる(人間であることを否定される)ことを正当化する。人種、宗教、性など、さまざまな分割線が人間のなかに非人間をつくりだし、そうした存在を客体として使い尽くし、使い捨てることを正当化してきた。この分割に暴力性が埋め込まれていることもまた見やすい。 

 人間と人工物のあいだの分割もまた主客の非対称性が自明な分割ではない。人間は人工物との相関関係、つまり道具/技術によって、その在り様をつねにすでに大きくつくりかえられてきた存在である。いわばホモ・ハビリスは最初から人間と人工物の組み合わせでできたサイボーグなのだ。己のサイボーグ性に気づかないふりをしていた人間は、情報技術や生命技術の進展の果てに、テクノロジーで築き上げられたシステムのもとで家畜化される危険性の淵に立たされていないだろうか。 

 これら三つの分割線はごく大雑把な見取り図を描くためのものにすぎない。だが、さしあたりの作業仮説として、三つの分割の組み合わせが存在論的体制となって「文明」を構成すると見立てることで、批判的な文脈において「文明」を比較へと引き入れることはできるのではないか。 

 私たちは決して「文明」を外側から批判できる位置に立っていない。したがって「文明」を批判的な文脈に引き入れる作業は、どうしても再帰的あるいは遂行的なものとならざるを得ない。しかしだからこそ、そうした批判的分析を通して、この語を用いることなく記述可能な歴史の地平のうえに現在を位置づけ、未来を描く可能性もまた開かれえよう。 

                                         (立命館大学)