追悼(阿部珠理先生)

阿部珠理先生を偲ぶ 佐々木一也

2019/07/29 00:00

 前副会長であり永年本学会に多大なる貢献をされてきた阿部珠理先生が本年2019 年 3 月 12日に逝去された。享年67歳。退職されてこれから自由に研究に、その他の活動にと精を出されるという時期に病魔に斃れられたことには痛恨の念を禁じ得ない。 

 私は1989年4月1日に立教大学一般教育部に阿部珠理先生と同時着任した。3歳年長の阿部先生は立教大学社会学部の卒業生でもあり、アメリカ留学から帰国して母校の教壇に立つという栄誉を纏った先生は私には眩しく見えた。その後大学設置基準の大綱化により一般教育部が解体されることになり、先生と私は別々の組織に移ることになった。しかし、共に全学共通カリキュラム運営センターに依拠して、先生は新しい言語教育構築と運営に、私は総合教育科目の構築にと力を注いだ。大学院教育ではまたご一緒になり、文学研究科比較文明学専攻を新たに設置し所属学部の違う阿部先生のご協力を仰いだ。そして立ち上げ教員として現代文明についての領域横断的な研究教育を10年ほどご一緒にさせていただいた。その後、先生は所属する社会学研究科のお仕事に専念されることになり、比較文明学専攻でのご指導は終わった。一見姉御風の堂々とした態度、は っきりした物言い、厳しい指摘などから、学生・院生たちからは敬遠されることもあったが、親しんでくると、実は人情に篤く学生に寄り添う指導熱心で、学問以外でも日本伝統芸能や文化に造詣が深く、経験もお持ちであるという奥深い面が見えてきて、大変人気があった。 

 比較文明学専攻の授業科目には現代文明学特殊研究という科目群があり、そのうちの 2 科目が全体授業と位置づけられ、阿部先生がいらっしゃった頃は専攻に所属する全院生と全専任教員が出席する科目だった。院生が発表して教員たちが次々にコメントすることもあったし、教員 1 名が話をしたり、複数でパネルディスカッションをしたりして院生たちや教員たちが突っ込みを入れる、といったことをする授業だった。この授業で私はしばしば先生の学問に触れる機会を持った。私自身の基礎分野が西洋哲学、特に近現代ドイツ哲学で、やや観念的傾向が強かったのに対して、阿部先生はアメリカ帰りの社会学者であり、特にその研究領域がアメリカ先住民族、とりわけラコタ・スー族だったこともあり、その方法論から基本的考え方など、私とはかなり異なるものをお持ちだった。それでもフィールドワークでの実見に基づく実証的データを基にする先生のお話には私にとって非常に説得力があった。近代文明との戦いに敗れ片隅に追いやられながらも、それの影響との葛藤の中でなんとか伝統を守り抜いているアメリカ先住民族の信仰や生き方に基づく講義は、比較文明学を学ぶ院生たちに深い感銘を与えた。私も近代哲学の克服を目指す者として先生のお話からはたくさんの刺激を頂くことができた。 

 先生は授業でよく「エピファニー」という言葉を使われた。エピファニーとは英語でepiphanyという。意味は「神の出現」「天啓」といったことだが、それから「突然なにかが直観的にひらめく」といった意味になる。日本文化にも造詣の深かった先生はそれを禅の「見性」(悟り)だともお っしゃった。アメリカ先住民族の深い思想にはこのエピフ ァニーによるものが多いという。この直観を大事にするところが、単なる実証社会学者ではなかった先生の真骨頂だろうと思う。立教大学の比較文明学専攻にはこのエピファニーを大切にする伝統が残っている。体系化され制度化された学問の革新こそが我が比較文明学専攻の使命なのだが、それを可能にするきっかけがほんの些細なエピファニーから始まるからである。 

 阿部先生が立教大学を定年退職された際の最終講義は圧巻だった。300名定員の教室が超満員で立ち見が出る大盛況であった。その際に日ごろの授業で語られてきた先生の名言をまとめた冊子が配布された。そこに私が日ごろから感銘を受けていた話が載っているのでご紹介したい。題は「もらった物は、手放すときに初めて本当の贈り物になる」である。 

 

 ラコタ族には四つの美徳というものがある。「寛大」「勇気」「敬意」「智恵」がそれである。この中でも「寛大」は、日常生活を営む上での大切な指針である。ラコタで寛大であるというのは、一般に「気前のいい」ことを意味する。年寄りに言わせれば、かつては若者がバッファロー狩りから帰ったときに、獲物の肉を年寄りや寡婦に、どれだけ気前よく分けられるかを、婿選びの基準にしたという。ラコタではケチは泥棒より評価が低い。(中略)ものはその人が必要なときに、その人のところにやってくるようになっている。たいていは誰かから与えられることによって。だから次に必要な人が現れたら、気持ちよく手放さなければならない。もちろん愛着が移り、手放したくないものもある。しかし自分よりそのものが必要か、あるいはそれを持つのにより相応しい人が現れたら、心残りでもすっぱりと手放す心映えが美しい。そのとき、貰ったものは、本当の贈りものになる。(阿部珠理先生退職記念の冊子p. 70 より) 

  

 文明はシステムである。だが、それに属して生活しているひとりひとりの個人もまた紛う方なき文明装置であることがこの話からよく分かる。循環型社会のためにこの美しい心映えの価値に気づくシステムを構築したところで、それは機能しないだろう。そこにはやはりあのエピファニーがどうしても必要なのだ。現代文明にこのエピファニーが降臨するためにはどうしたらよいか。それが先生が私たちに遺してくれた課題である。 

 阿部珠理先生のご冥福を心からお祈りしたい。 

 

(立教大学)