ニュースレター第69号「研究の現場から」

「哲学対話」の流行にみる真理探究の態度について 大森一三

2021/03/11 20:29
広報委員(宮嶋)

 この数年、巷では、「哲学プラクティス」の活動が流行現象となっている。「哲学プラクティス」とは、学会や研究会、大学といった学術的な場に限らず、社会・市井の現場で開かれている「哲学カフェ」や「哲学コンサルティング」、対話を用いた哲学教育などを指しており、哲学的な視点から様々なテーマに取り組む活動を意味する。その中でも特に、比較的自由な形式で行うことができる「哲学カフェ」は北海道から九州まで全国に広がっており、いたるところで行われている。「哲学カフェ」や哲学対話の主催は必ずしも哲学研究者である必要はなく、基本的にはあらゆる年齢、性別、職業の方が参加者可能である。「哲学カフェ」は、哲学の知識の多寡を競う場でも、ディベートのように相手を議論で打ち負かす場でもない。あくまで議論を通じて、「考えを深める」ことを目的とする集いである。普段、哲学・倫理学業界には縁が薄い方であっても、もしかしたら大学やイベントホール、市町村のコミュニティの掲示板等で「哲学カフェ」の名前を見たことがあるかもしれない。 

 「哲学カフェ」の起源は、フランスの哲学者マルク・ソーテ(MarcSautet,194798)が、パリのカフェで、仲間内で哲学の議論を行う約束をしたところ、哲学討論会が行われると勘違いした市民がそのカフェに集まり、その場でソーテがそれに応じたことが発端とされる。しかし、もともと哲学の祖とされるソクラテスが、アテナイの街中を歩く若者相手に問答を仕掛けていたことを考えるならば、街中で市民同士で自由に語り合う「哲学カフェ」は、哲学のオリジナルの形そのものであると言えるかもしれない。 

 「哲学カフェ」や対話を用いた哲学教育では、基本的には何らかの確定的な結論が出ることはない。1つのテーマについて時間をかけて議論をして、何らかの結論に達するどころか、かえってそれぞれの意見や認識の違いが浮き彫りになったまま終わることもある。それゆえ、専門の研究者から見れば、こうした「哲学プラクティス」の試みはアマチュアの議論であり、おしゃべりとみなされることもある。しかし、再びソクラテスを省みるならば、プラトンが著した対話篇の中でソクラテスが仕掛ける問答も、結論が出ないまま、物別れに終わることは実に多い。つまり、もともと哲学議論にとって「結論を出さないこと」「物別れに終わること」は、ごく当然のことなのだ。 

 では一体、こうした哲学対話の目的は何であると言えるのだろうか。筆者が思うに、それは、既存の学問的な「問い」と「答え」のあり方そのものを崩し、思考を個人の内に取り戻すことにある。少し噛み砕いて説明しよう。 

 一般に、学問が扱う「問い」や「答え」は客観的で普遍妥当的であることが重要とされる。たとえば、ある人間関係一般の衝突や、ある社会的問題は学問的に問われることはあっても、「私のパートナーとの喧嘩」や、「ある人のお酒への依存」といった事柄が学問的に問われることはほとんどない。それらは「個人的な事柄」であり、ある程度抽象化し、一般化することによって初めて他の人にも妥当しうる学問的な問題となる、というのが一般的な学問知のあり方とみなされているからである。 

 ところで本来、哲学者たちはソクラテスの時代から、繰り返し既存の知や価値体系が自明視してきたものを疑い、揺さぶり、覆そうとし続けてきた。そのうちの1人、20世紀の思想家、ハンナ・アーレント(HannahArendt,1906-75)は、まさに上で述べたような学問のあり方にかんして、極めて鋭い指摘を行っている。彼女は、ヨーロッパ文明および近代科・学技術の根底にある知のあり方に批判を向け、伝統的に哲学者や科学者たちが孤独で理性的な思考を重んじ、普遍的で確実な知を求める真理探究の態度、思考を批判した。そして、素朴に依拠してきた普遍的な原理が崩壊し、価値や規範が多様化した「手すりなき思考」の時代である現代にあっては、伝統的な真理探究の態度とは反対に、異なる立場や文化、宗教、考え方を持った他者と意見を交換し、それぞれの違いを明らかにし、思考を深め、より真なるものに近づこうとしてゆくソクラテス的な思考のあり方に注目した。ある意味では、昨今の哲学対話はこうしたソクラテス的な思考の実践を目指していると言える。 

 もちろん、「哲学カフェ」や哲学対話も一過性の流行に終わる可能性もある。だが、哲学対話が目指しているソクラテス的な思考の実践は、学者と市井の人々との能動・受動関係や、知の普遍性・個別性、主観的・客観的といった既存の区別の問を融解させ、取り払おうとし続けてゆくだろう。そして、こうしたソクラテス的思考は、異なる文化や文明を比較・考察し、時にはそれらをつなぎ、あらたな知を紡いでゆく比較文明学にとっても重要な真理探究の態度を示唆しているのではないだろうか。 

 

                                         (法政大学兼任講師)