ニュースレター第61号「研究の現場から」

研究の現場から 佐々木一也

2016/05/06 13:08
広報委員(宮嶋)

 

 私の所属する立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻は、現代の資本主義的都市文明特有の諸問題を、複合的視点および学際的視点を駆使し、場合によっては新たな学際的視点を構築しながら研究してきた。比較文明学専攻は4 部門に分かれている。主要部門で全体の基盤となる現代文明学、資本主義的都市文明装置を主に扱う文明工学、現代文明を媒介する言語に関わる諸問題を扱う言語多文化学、そして、この3 分野全体に跨る諸表象および表現の問題を扱う文明表象学である。 

 私自身の比較文明学研究は現代文明学と言語多文化学に跨っている。関心テーマはいろいろあるが、現在の中心的関心は生命維持と集団秩序を可能にする力の現代日本におけるものと古代ギリシャ哲学以来の西洋哲学の合理性によるものとの比較である。 

 例えば、人間同士の権力差について単純化して考えてみよう。現代日本の人間集団は世間と呼ばれる性格を維持している。世間は移ろいやすく形もはっきりしない曖昧な集団である。統合の原理があるかどうかも微妙である。内部の人間同士に権力関係があるものの、その力の源泉は必ずしも明確でない。強者が一瞬にして弱者と入れ替わることもある。世間では人間相互の関係性が重要であり、それに対して常に意識を向け敏感に反応することが求められる。その一方、西洋の合理性による社会は明確な社会規範としてのルールを持ち、普遍的基準によって権力関係が定まっている。統合原理ともいうべき理念が明確にある。それゆえに個人としての人間は強く独立しており、相互の関係性は副次的である。権力差が個々の人間関係に依存している世間とは違い、社会では強者はどこでも強者である。強者は普遍的ルールに則った競争の勝利者だからだ。独立した個人同士の競争は過酷であり、その結果も仮借ない。勝敗は明確化され、勝者は敗者からすべてを奪う傾向が強い。だが、世間にはそのようなことはない。関係性が重要で相互に持ちつ持たれつで維持されている世間では勝敗を明確化することは避けられる。原理的理念に照らし合わせて人間を動かすよりも、すでに成立してしまっている現実態こそがその時点で最も「合理的」だとされる傾向が強いからだ。 

 現代日本の都市文明では上記の両傾向が混在し、未整理のまま無自覚に混用されている。それらを整理し、ある均衡点を求めて自覚的混用を行うとき、グローバル時代の生命維持、平和的秩序が実現すると想定して、その均衡点を模索するのが目下の研究課題である。 

 研究を進める方法論として私が採用しているが西洋哲学の解釈学(Hermeneutik, hermeneutics)という考え方である。解釈学によれば、世界は言葉で表現されて意味のあるテキストであり、テキストである限り解釈学的循環を免れない。解釈学的循環とは、解釈の際に読んでいるテキストの部分の意味を明確化しつつ全体理解を目指す必要があるが、その一方で部分の意味は全体の文脈に依存するので、部分と全体が相互に規定し合って循環になる、ということだ。例えば、現代のテキストの創作と解釈はこれまでの歴史の中で創作され解釈されてきた古典テキストに依存し、その古典テキストを我々が解釈しようとすれば現代のテキスト解釈に依存するというような解釈学的循環関係もある。それゆえに現代の人間集団を理解しようとすれば、過去のテキストを伝えてきた文化的伝統との間の循環にも参入しなければならない。現在の我々の生命活動は物理的に太古から直線的にDNAを伝達してきただけでなく、過去のテキストを現在の観点から解釈し自分のものにすることによって成立してもいる。つまり、現在の我々の世界理解は過去のテキストとの循環的関係の中に成立しているのだ。我々の現在の生命活動の内容は過去との循環から意味を成すのであり、同時に未来からの循環をも想定して成立している。このような世界には客観的で不動の基準は機能し得ないはずである。このように、現代文明における生命維持と平和秩序実現の鍵は解釈学的循環の具体相を自覚することにかかっている、という認識の上に私の研究は立っている。 

 このことは現代日本の秩序感と西洋哲学の秩序原理を比較すること、現代文明の具体的諸相と言語の多様な機能とを結びつけることから見えてくる。両者を融合して新しい学際分野として汎用的な哲学的認識論を構築することが私の研究の最終的目標である。 

(立教大学)