追悼(神川正彦先生)

神川正彦博士を偲んで  三宅正樹

2009/08/01 17:16
広報委員(梅原)

 神川正彦博士は、ここ数年来悪性の淋巴腫との闘病を続けておられたが、2009年3月13日に、79歳で、横浜市立大学医学部の付属病院で逝去された。私は博士とは神奈川大学で1976年まで9年間同僚としてご一緒したが、この9年間は、全国的に学生運動が盛り上がるなかで、とりわけ激しい学園紛争の嵐が神奈川大学に吹き荒れた時期を真ん中にはさんでいる。その嵐のなかで、教授会での輿望を一身にあつめた博士は、学生部長、学長代行、理事の激職を次々に歴任された。博士は研究者として類稀な能力を有すると同時に、大学行政についても、すぐれた能力を発揮され、激動のなかでたいへんなエネルギーを大学行政に傾注された。そのなかにあって、ご自身の研究についても倦む事の無い努力を続けられ、『歴史における言葉と論理 歴史哲学基礎論』(勁草書房、2巻、1970~71年)を完成、東大から文学博士号を授与された。 

 博士は、私が明治大学に移る一年前に、国学院大學文学部哲学科に移られたが、国学院大學に移るに際して、博士の「問題探究としての哲学」について歴史哲学に続く第二段階を完成させることと、大学の役職にはもう二度と決して就任しないこと、という二つの決心をされた。この決心は見事にまもられ、『価値の構図とことば 価値哲学基礎論』(勁草書房、2000年)を完成させる一方で、学部長などの役職には全く就任することなく学問研究のみに精進して70歳の定年を迎えられた。 

 「問題探究としての哲学」とは博士ご自身の言葉であるが、我が国における哲学研究の主流、いわば王道は、西洋のいずれかの哲学者の著作、たとえばプラトンやカントの著作を丹念に辿って、一字一句をゆるがせにしない厳密な解釈を確立することにある。この王道に背を向けて、「問題探究としての哲学」という立場を貫いて、自分自身の哲学を確立するなどということは、実は容易ならざる業であり、強靭な意志と、深い思索と、卓抜した構成力とを必要とする。このことに、博士は見事に成功された。博士が素早い理解力と比類のない犀利な頭脳の持ち主であったことは、多くの人が認めるところであろう。このようなすぐれた能力を、博士は自分自身の哲学を樹立することに振り向けた。もし、博士にこの世への心残りがあったとすれば、価値哲学をめぐって、基礎論に続く応用論を生前に完成させて著書のかたちに出来なかったことであろうが、刊行された基礎論だけでも二段組で500枚をこえる厖大なものであり、それを大成し得たこと自体、驚くべきものがある。 

 狭義の哲学だけでなく、比較文明論の分野においても、『比較文明の方法 新しい知のパラダイムを求めて』(比較文明学叢書2)と『比較文明文化への道 日本文明の多元性』(比較文明学叢書5)という、すぐれた着想に溢れた本格的な学術書が、いずれも刀水書房から、1995年と2005年に刊行されている。『比較文明』にも多くの力作を寄稿されたが、14号所収の「S.P.ハンチントン『文明の衝突と世界秩序の再編成』に寄せて」から私(三宅)はとりわけ多くを学び、私の著書『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)で詳しく取り上げた。神奈川大学を去ってから、同僚として連日博士に接することはなくなったが、比較文明という場で、ふたたび博士から絶え間なく教えを受けることが出来たのは有難いことであった。 

 博士は、家庭人としては、実に幸せな生涯を送られた方だと思う。研究に精進し、熱中する博士に対して、十浄夫人は、常に愛情溢れる理解と協力とを惜しまれなかった。 

 本年1月8日、横浜市立大学の病院に博士をお見舞いした時、明晰さはいつもと変らなかったが、言葉に力がなかった。最後に、生と死とは単純な二分法であることがわかったといわれたが、この古代ギリシャの哲学者のような謎めいた断言の意味をさらに問うことは、博士の衰弱ぶりを前にして断念するほかなかった。それがこの世で聞いた博士の最後の言葉となった。博士の多彩な着想が、多くの若い研究者に継承されることを願ってやまない。 

 

(明治大学名誉教授)