追悼(片倉もとこ先生)

「崇高な夢」とイスラームの芳香 —追憶の片倉もとこ先生— 吉澤五郎

2013/09/03 17:41
広報委員(梅原)

 異郷の「アラビア文字」は、天上の神のことば(クルアーン)を写すのだろうか。ふと、その高貴な神秘性と芸術性に魅せられることがある。折々に、片倉もとこさんと交わした「往復書簡」をひもとくとき、なんとも流麗な筆勢で「アラビア書道」をしのばせる。その書体は、のびやかに大らかであり、しかも優美でゆたかな詩情を奏でている。今年元旦の賀状には、「おすこやかにおすごしくださいますよう、おめもじの機会もいずれ、、、」と記されていた。さらに達意の文がつづき、「同い年」のよしみとして希望の調べとともに、「いま、さいごのエッセイを書いています」と結ばれている。よもや、その書が、永遠の別離となる『旅だちの記』(2013年4月、中央公論新社)になろうとは、知るよしもなかった。 

 申すまでもなく、片倉さんは、ひろく世界的なフィールドからイスラームを探求する文化人類学者として名高い。ちなみに、そのイスラーム巡歴は、いち早くサウジアラビアの砂漠で起居を共にしたべドウィン研究(1968年)にはじまる。当時のベドウィン像には、まだ「町はずれの地」(バドウ)をさすらう遊牧の民として、一部に蔑視のまなざしも深い。いわゆる「禁断の園」でのフィールドワークは、余人のおよばぬ「空前絶後の快挙」でもあった。その原体験をつづる「英文報告書」は、すでに日米両国で刊行されている(東京大学出版会・コロンビア大学出版局)。日本語では、名著のほまれ高い『アラビア・ノート-アラブの原像を求めて』(1979年、日本放送出版協会)の誕生となる。 

 さっそく、国立民族学博物館の梅棹忠夫館長は、同書をこれまでの歴史研究や文献学と一線を画す好著とし、直談判で片倉さんの招聘に成功する。わたしと片倉さんとの最初の出会いは、その国立民族学博物館で催された一連の「共同研究(杉田繁治代表、1987,1991年)に端を発する。もとより、文化人類学と比較文明学の対話は、他ならぬ「人類の全体性」への志向として不可欠な課題でもあった。片倉さんが、新たな「総合知」への希求から、両者の縁結びに果たした役割は大きい。なお、初対面の印象は、アラブの星空に舞う華麗な天使のごとくであった。この一場の機縁から、片倉さんとは「旅する人」(ホモ・ヴィアトール)としての身上も重なり、新たに携えた共同作業がはじまる。 

 ここでは、おもに本学会の航跡に照らした一例をかいま見よう。まず、新学会の「生みの親」である伊東俊太郎会長の退任(2002年)後、存外にも不肖わたしがその大役を拝命することになった。その際、まず脳裏にひらめいたのは、最良のブレーンとして副会長に片倉さんを迎えることであった。難題ながら、幸いにも快諾をえて、他方の有能な染谷臣道副会長や松本亮三総務理事等とともに「創意ある再生」に漕ぎつくことができた。 

 また、学会15周年記念事業として、新たに比較文明学の鼎を問う「講座・比較文明」(伊東俊太郎・梅棹忠夫・江上波夫=監修、朝倉書店)が企画された。その第2巻『比較文明における歴史と地域』(米山俊直・吉澤編、1999年)の刊行に際し、片倉さんのテーマは「文明としてのイスラーム」であった。いわゆる、アラビア文化とイスラーム文明の深層にひそむ「連続性と革命性」の葛藤を解く労作である。さらに、放送大学の専門科目(テレビ番組)として、新たに「比較文明の社会学-新しい知の枠組」(主任講師=米山俊直・吉澤、1997?2001年)が組まれたことがある。片倉さんには、たって第一線の卓抜なイスラーム学者として出演を依頼した。その折のテーマ「移動と文明」は、広大な人類史上の「移動交響楽」として、自ら「ホモ・モビリタス」と名のる人間活動の試練と明日への命運を問う感銘深きものであった。 

 いま、手もとには、片倉さんの温雅なほほえみをしのぶ全著作がある。かつてわたしも、その「名作の花園」から一大編著『イスラーム世界事典』(片倉もとこ編集代表、2002年、明石書店)を論評し、とくにイスラームの巨星イブン・ハルドゥーンとトインビーとの「対話」にふれたことがある(「比較文明」18、2002年)。そして、片倉さんから寄せられた「さいごの玉稿」は、雪のイスタンブールに耳を澄ます「感性と理性のあわい─トインビーのシルエットをおいながら」(『21世紀とトインビー』14・巻頭言、2011年)であった。いかにも、「水色の星」(全地球)を慈しむ崇高な夢と、イスラームのゆたかな芳香がたゆとう。 

 親愛なる片倉もとこ先生、どうぞ「ゆうーっくりしずかーな」旅だちでありますように。 

 

(麗澤大学、比較文明学会第2 期会長)