ニュースレター第54号巻頭言

文化の多様性を巡って ─文化、社会そして境界─ 松本亮三

2011/12/17 22:54
広報委員(宮嶋)

 2001 年11 月、ユネスコは第31 回総会において、「文化の多様性に関するユネスコ世界宣言」を採択し、その4 年後、2005 年10 月の第33 回総会では「文化的表現の多様性の保護及び促進に関する条約」(文化多様性条約)を148 カ国の賛成を得て採択した。この条約は、締約国が30 カ国に達した2007 年3 月に発効し、現在115 カ国とEUによって締結されている。日本は、2005年の採択時にこれに賛成したが、その締結は永く留保されてきた。2010 年3 月には日本ユネスコ国内委員会が、政府に対し条約締結を促す建議を行ったが、未だに締結に至っていない。 

 文化の多様性とは、文化多様性条約の中では、「集団及び社会の文化が表現を見出す多様な方法をいう」(日本ユネスコ国内委員会による仮訳)と定義されている。この条約は、グローバリゼーションの進む現代において、文化的表現の過度な商品化・寡占化を防止する目的をもっているので、表現(expression)という面が強調されているが、レヴィ=ストロースの言を借りれば、文化とは「ある文明に属する人々が世界ととり結ぶ関係」であり、個々の集団がもつ分類体系や世界観、つまり思考様式の多様性こそが、文化の多様性の根幹をなすものだと言ってよい。 

 文化の多様性がなぜ必要なのかについて、私は生物学的な比喩を用いて学生に説明してきた。人類などの高等生物が有性生殖をするのは、個体の遺伝的構成を多様にすることで種の絶滅の危険性を回避することに寄与している。人類は文化をもつ生物であり、文化的多様性を保証することこそが人類存続の要であると言ってきたのである。どのような文明もエスノセントリズムに陥りやすく、武力や経済力と結合すると、他文化を否定しようという動きが生じる。これは、日本がすでに経験してきた通りであるし、教育すら輸出品にして世界の文化と経済を席巻しようとしてきたアメリカ合衆国の姿勢もその例である。エスノセントリズムの行き過ぎは、自文化を映す鏡としての他文化の存在があってこそ正されるものであり、地球という限られた空間において多文化が共生することは、人類の生存に多様な選択肢を与えるために不可欠だと言える。 

 最近、『菊とポケモン』という本を手にした。アン・アリスンというアメリカ合衆国の文化人類学者の著作である。原題は、Millennial Monsters: Japanese Toys and Global Imagination と言い、2006 年に出版されている。ポケモンなどの日本のゲームやアニメなど、いわゆるクール・ジャパンが、グローバリズムの波に乗ってアメリカ合衆国など世界中に普及していった現象を分析し、ポストモダンの「分断化され、流動的で不確実な現実世界の体験とある部分シンクロしている」(p.383)ことを示したものであった。いずれにせよ、本書はハリウッドとディズニーランドに象徴されるアメリカ合衆国の文化的覇権が崩壊したこと、ある意味で日本のポップ・カルチャーがそれに代わりつつあることを書いている。著者も言うように、文化とは一定の領域内に時間を超えて継続するものではない。いくつもの異なった文化現象が国や社会の境界を越えて多層的に存在することは決して不思議ではない。しかし、私は日本人を含め、世界中の若者たちが、仮想のファンタジー世界に熱中している姿を想像して、恐ろしさを感じざるを得なかった。 

 仮想のファンタジー世界は視覚と聴覚のみで構成された不完全な世界である。ここでは身体的な危険を伴わず、自らの生活世界の外側に飛び出して自由に冒険することができる。この経験が現実世界に及ぼしている影響こそ問題ではないかと思う。現代日本の若者は旅をしないと言われる。海外留学の希望者も全国的な傾向として減少しているという。仮想世界での経験で満足し、敢えて危険を冒してまで現実の社会や文化を体験しようとしなくなっているのではないか。最近、尖閣諸島や北方領土でトラブルが続き、一時領土問題が再燃したが、若者たちの興味の埒外にあるように見える。若者たちのみならず、政府の対応も曖昧である。マスメディアが槍玉に挙げる政府の認識の甘さは、文化多様性条約の放置とも共通しているように思われ、日本全体が現実世界から乖離していくのではないかと危機感すら感じるのである。 

 多様な文化に起源する文化現象が、境界を越えて重層的に存在するのは当然であるが、文化を生み出す文明の基盤としての人間集団つまり社会には、おのずから境界があることを忘れてはならない。この境界の認識こそが、社会や文化の多様性を認識させる源泉であろう。現実世界に存在する様々な境界を認識し、この境界を意図的に乗り越えて他者の文化を体験し、それを理解しようとするところに、文化の多様性を尊重する意思が生じる。次代を担う若者たちに現実世界をしっかりと認識させなければ、文化の多様性は崩壊し、人類はその営みを終えるかもしれない、というのは極論であろうか。 

 

(東海大学)