ニュースレター第43号巻頭言

近代という伝統:アメリカの保守主義 柏岡富英

2005/06/15 23:49
広報委員(宮嶋)

 戦後の日本人にとって,アメリカは近代文明のモデルであり,輝かしい未来に向かって雄々しく立ち向かう開拓者の国であった。ケネディ大統領の就任演説や,テレビドラマに描かれる人々の姿に,まだ中学生であった私も,わけもわからず胸ときめかせていたことを覚えている。 

 ところが1966年から一年間,南部のテネシー州に滞在したとき,それまで抱いていたイメージとはずいぶん違うアメリカに取り囲まれてびっくりした。まわりの人々はきわめて道徳主義的であり,悪童どもも日曜にはしおらしく教会に通うのである。通っていた高校では進化論(サルの法則)がやっつけられ,共産主義が「いかに間違っているか」を教えていた。一言で言うと,なんと保守的な社会であることか,と驚いたのである。この驚きが,その後ずっと,私のアメリカ観の根底をなしてきた。 

 ブッシュ大統領が再選されたことでアメリカの「保守化」が喧伝されるが,もともと保守的な社会であったのではないだろうかと考えている。ただ,アメリカの保守主義というのが特殊な性格をもっているために,一般に政治学や哲学で教える枠組みでは理解しにくい。ふつう保守は啓蒙の対局におかれるが,啓蒙が「主義」として比較的洗練された思想体系をもっているのに対し,保守は思想体系というより一種の生活感覚と理解するのが便利だろうと思う。この感覚を構成している諸要因をエドモンド・バークから拾い集めてみると,政府への不信,愛国主義,平等よりも自由の尊重,現状肯定,未来への悲観,エリート待望論(ないし階級否定論),急進ではなく漸進志向などということになろう。 

 このうち初めの三つはアメリカにもあてはまりそうだが,後の四つは様子が違う。アメリカは未来を悲観するどころか,現状を常に打破しながら(スクラップ・アンド・ビルド),あくまで「よりよい世界」に向かって邁進することをやめようとしない。離婚率と再婚率が,両方とも異様に高いのは,その現れだろう。またエリートの統治を嫌い,大衆的なリーダーを好む。これらは,むろん,建国の背景や,独立以来の歴史的変遷に由来する特性である。マーティン・リップセットの古典的名著(The First New Nation)が見事に描き出したように,アメリカは世界最初の新興国であり,「建国直後のアメリカは,ヨーロッパの啓蒙主義者にとって希望の星であった」(ロバート・ケーガン『ネオコンの論理』(光文社,p. 14)。 

 こういうことを考え合わせると,そもそもこの国を保守や啓蒙という枠組みで規定しようとするのが便宜にかなっているのかどうかさえ怪しい。しかし現実に,ネオ「コン」を自称する人たちが,政治の世界でも宗教や文化の領域でも主流を占めており,しかも自分たちこそが建国の精神に最も忠実なのだと主張しているのだから,やはり保守というのは大切な概念枠組みなのにちがいない。上にあげたマーティン・リップセットが,ダニエル・ベルやパトリック・モイニハンと同様,元・進歩派でありながら元祖・ネオコンに転じたことは,思考の混乱にいっそうの拍車をかける。 

 精密な議論を展開するには,気の遠くなるようなプロジェクトを組まねばならないだろうが,さしあたり極めて粗雑ながら「『近代という伝統』を守り通そうとする保守主義」と理解すれば大筋の脈絡が通るのではなかろうか。アメリカにとって,「近代」の十全な展開と「地上に神の国を建てる」ミッションとは大きな親和性をもっている。民主主義や市場経済の貫徹,あるいは性の解放やタバコの撲滅は,近代性の実現(アメリカはそのために生まれた)に不可欠であり,神の意志にしたがうことでもある。この伝統に忠実であるためには,現状を肯定するのではなく,現状を打破せねばならない。また,神によって選ばれた人々(アメリカ人)の間では固定的エリートは排除されねばならないが,選ばれていない人々に対しては,エリートとして断固改変を迫り,正しい道へと導くミッションを負っている。イラク戦争は,文明の衝突ではなく,文明による非文明の暴力的啓蒙,と考えると分かりやすいのではないか。この十年ほどの間,フレデリック・ターナーのフロンティア論が見直されるようになったのも,ネオコンの台頭とともに,この暴力的啓蒙こそがアメリカの伝統と認識する機運が高まったためであろう。 

 冷戦終了後,アメリカは世界唯一の超大国として,それまではどこかに潜んでいたヨーロッパへの引け目も消え,ますます自らの伝統に自信をもつようになった。ブッシュ氏の再選は,保守主義が新しく台頭したことではなく,9/11のショックを機に,底辺を脈々と流れていたナマの価値観が一気に噴出したことを表している。アメリカは保守すべき伝統,すなわち「近代という伝統」を再発見し,それを実現しうるのが己のみであることを再確信するに至ったのである。 

 日本にとって,米国は戦後一貫して「導きの星」であり続けたし,そうでなくなる時代が近いうちに到来するとは考えにくい。9/11以降,「敵か味方か」という,極めて米国的な選択を迫られるたびに,現実問題として,日本は追随する以外にはなかった。二十世紀と同じく二十一世紀も,アメリカ文明が支配し続けるであろうことは,歯ぎしりしながら認めざるをえない。しかし,それほど重要な国であればなおさら,日本はアメリカ的近代の生活感覚,あるいはネオコンが保守しようとしているものを,知っておく必要がある。 

 これが容易な業ではない。先日,久しぶりにかの国を訪ねたとき,私の話した人のほとんどが猛烈なブッシュ嫌いだったので,再びわけがわからなくなった。そこが面白いのだけれど。 

                                                         (京都女子大学教授・社会学)